【復刻記事】the Stanley Parableにちょっとだけマジメに向き合ってみた

※2017/09/19追記※
何が復刻かと言いますと、この追記を記載した日に
記事を一度全削除しました。

ですが、この記事に関してはアクセス数が非常に多かったため、
バックアップから復元して再度公開します。

内容は公開当時と何も変わっていません。

※追記ここまで※

ニコニコ動画にランキング入りし、にわかに流行りだした「the Stanley Parable」。
私も全エンディングをプレイし、有志日本語化が完成した際には
嬉々として再プレイ(除く某4時間エンド)したものです。

で、結局このゲームは一体何だったんでしょうか。
"Parable"とは、「たとえ話、寓話」という意味なので、
このゲームの内容は、何らかの比喩である、と言うことになります。

折角の流行なので、たまにはマジメにゲームの内容に向き合ってみましょうか。
内容が内容なので、ネタバレを大いに含みますし、
個人の考察なので間違い等も含まれるかと思います。
まぁ、そんな意見もあるんだな、と読み飛ばして下さいな。

・"the Stanley Parable"というおはなし。 – Freedom Endingとは何だったのか –

さて、ナレーターに全部従うことでたどり着く、通称"Freedom Ending"というルート。
何か変わったこともなく、建物の外に出て行ってエンディングとなります。

このルート、話の流れをざっくり纏めると、こんな感じですね。

「ただ画面に出たボタンを押すだけ」
そんな単純作業を長年続けてきたスタンリーは、ある日、ふとしたきっかけで、
自分が「マインドコントロール施設」により操られていたことを知る。
彼は、マインドコントロール施設の電源を切り、自らの意思で外の世界へと脱出した。

これが、ナレーターの言う、「the Stanley Parable」というゲームの内容です。
素直に読むと、まったくもって内容のないお話ですが、これは「寓話」だと言っているので、
一体何のたとえ話で、何を言っているのかを深読みしてみましょう。

「会社で言いなりになって生きていた男が、自分の意思が無かったことに気づき、自由の身となった。」

そんなお話ですから、「自分の意思で物事を決定することが、自由と言う事である」
というのが、お話のテーマになるんでしょうか。

このゲーム、何かと「選択」を迫られます。
二択のドアにしてもそうですし、階段を上るのか降りるのか。
それらの選択をくぐり抜けるうち、「今までの選択は、自分の意思ではなかった」ことに気づいたスタンリーは、
最終的に、「自分の意思」で施設を止め、自由の身となりました。

他人によって与えられたレールの上を歩くことが、どれだけ幸せであったとしても、
自分の意思で、自由に選択することの方が重要である。

Freedom Endingとは、そんなエンディングなのでしょう。
だって、リアルの貴方も自由に決断してますよね?

・・・本当に?

「自分の意思で、自由に選択をすることを決めたという男の話」を、
ナレーターによって与えられたルートを辿って、聞くことになったと言うのに?

それが、”the Stanley Parable”という物語の、このゲームの最も重要なシステムなのです。
「貴方には、選択の自由がある」。

・もうひとつの"the Stanley Parable"。 – Real Person Endingとは何だったのか –

「自由な選択」こそが重要なのであれば、なんでスタンリーはナレーターの言うことを聞いてるんでしょう。
無視できるんだから、無視すればいいじゃないですか。自分の行きたい方向に行きましょう。

・・・そんな選択を繰り返した末にたどり着く、通称"Real Person Ending"。
数あるエンディングの中で、唯一「スタッフロールが流れる」エンディングです。
これだけがスタッフロールが流れる、ということは、恐らくこのエンディングこそが、
「the Stanley Parable」というゲームの、真のエンディングなのでしょう。

そんなエンディングのルートは、だいたいこんな感じでしたね。

提示するルートはことごとく無視され、
とうとう、想定もしていなかった選択まで始めた!と困惑するナレータ-。
彼は、「目の前のスタンリーはリアルな人間であった!」と結論付けます。
「スタンリー」の手により、世界は崩壊の一途を辿ることとなり、
ナレーターはとうとう、その「スタンリー」を拒絶しました。

その後、再起動したゲーム画面では、動くことのないスタンリーと、
彼に動くよう懇願するナレーター、
そして、その様子を外から眺める、「あなた」の姿がありました。

ゲームにおいて、「制作者の想定していない動作」。
それは、一般的に「バグ」と呼ばれます。

ナレーターの想定を超えたプレイヤーの選択は、世界にバグを呼び込み、崩壊させてしまいました。
ナレーターは、「自分の思い通りに動かない奴はいらない!俺の制作物をどうするつもりだ!」と、
プレイヤーを拒絶し・・・。

最後に残ったのは、「誰も遊ぶことのないゲーム」と、「俺のゲームを遊んでくれ」と懇願する開発者。

ゲームとは、誰かに遊んで貰って、初めて意味を持ちます。
遊ぶ人間がいないのであれば、何の意味もないのです。

制作者の独りよがりなゲームは、果たしてだれかの手に届くのでしょうか?
遊ぶ人の望み通りでなければ、ゲームではないのです。
Real Person Endingとは、ゲームはプレイヤーの為のものである、という内容なのでしょう。

・・・本当に?

全てが、プレイヤーの望みのままに。
あなたの「選択」に対して、世界は望んだ通りの結果を返す。

それは、「制作者」というのではないでしょうか?
だって、ゲームというのは、「制作者の望みの通りに作られ、動くもの」ですよ?

・その全てが、寓話の為に。 – ゲームとは一体、誰のものか? –

マインドコントロール施設の電源を、もしオンにしたら?
そんなルートの中、ナレーターはスタンリーに語りかけます。

まさか正解があると思っているのか?

そう、これはゲームなんですから、制作者が意図しない結果は為しえません。
プレイヤーがいかに試行錯誤しようとも、「バッドエンド」と決まった以上、覆す手はありません。

スタンリーのふとした迷走の末、ナレーターすら、話の先が分からなくなってしまった。
本来のゲームに戻ろうと奔走するうち判明する、「ナレーターの混乱すら、全てが予定通りであった」という事実。
そんなルートの中、ナレーターはスタンリーに語りかけます。

こんなモノに従って忘れるなんて・・・
誰が勝手に決めた?私の意見はどうなる?

多くのプレイヤーが、一度は思った事があるでしょう。
「勝手に進めるな。俺はこんな事を考えていない」
いつの間にか、別の「制作者」の手によって、ナレーターはプレイヤーに変わり、
プレイヤーになったからこそ、彼はそんなことを口にしました。

どうすればスタンリーが言うことを聞くかと、
ゲームを改造したり、別のゲームを出したりする、
そんなルートの中、ナレーターはスタンリーに語りかけます。

君の意見なんて要らない。君の評価も要らない。
キーを押すだけの男に認められる必要なんてない。

キーを押すだけの男・・・スタンリーは、そんな男でした。
あなたは、どうですか?
ゲームは作らないけど、意見や文句だけは言い続ける、
画面の指示に従って、ゲームパッドのボタンを押すだけの存在でしたか?

謎の機械に圧死させられる直前、謎の声に救われたスタンリー。
博物館のような施設を歩く中、何者かが「あなた」に語りかけます。

彼らは、いつもお互いを憎んでいるし、
お互いを支配しようとし、逃れようとし、
そして、必要としている。

ナレーターは、スタンリーを望むとおりに動かそうと必死でした。
スタンリーは、ナレーターの裏を掻こうと必死でした。

ナレーターがいなければ、スタンリーは先に進む事すらできません。
スタンリーがいなければ、ナレーターのすばらしい物語は只の置物に過ぎません。

自分の望む「ゲーム」にしようと、制作者は、プレイヤーは、相手を言うとおりにしようとします。
どちらが欠けても、それはゲームとして成立しないというのに。

ゲームという存在は、はたして誰のものなのか?

私が"the Stanley Parable"という「寓話」から受け取ったお話は、こんな感じです。
ゲームだからこそ、自分で操作するからこそ、という、とても興味深い物語は、
私の生涯、心に残るゲームになったと断言出来るものでした。

the Stanley Parable、大好きです。

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